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あってよかった緩和ケア

緩和ケアは、がん等になった時から患者さんの心と身体の苦痛をやわらげ、
自分らしい生活を送れるようにするためのケアです。
あなた自身や大切な人のため、緩和ケアについて知ってください。

緩和ケア体験談・マンガ動画

令和3年度厚生労働省委託事業 緩和ケア普及啓発活動では、一般社団法人 全国がん患者団体連合会のご協力のもと緩和ケアの体験談を募集し、多くの貴重な体験談をお寄せいただきました。
その中から1本をマンガ動画にし、また、幾つかの体験談を掲載することで、緩和ケアの体験者の声をお届けします。

※ご投稿いただいた体験談の公開におきましては、本サイト上での読みやすさに配慮するため、
企画担当者の責任により改行などの編集を一部に行っております。
早い時期からの緩和ケア

「緩和ケアは、がんと共に生きる者にとってはなくてはならないもの」乳がん・30代・女性

(ご本人)
私は現在もがん治療と並行して緩和ケアを受けています。私が最初にがんと診断されたのは、10年以上前で、30代前半でした。最初の告知はステージ0の超早期のがんでした。がんになったころは、色々な市民公開講座などがんに関わる講演会を聞きに行って情報を集めていました。そこで、早期からの緩和ケアと言う言葉を度々耳にしましたが「早期」が何を意味するのかがわからなかったのと、「早期から」と言う割に先生方のお話に出てくるのは治療がなくなった患者さんのお話が多かったのを覚えています。
その後、初発から4年弱で再発を経験し、また自分自身が検査で遺伝性のがんと分かった時には、悲観的な思いは全くありませんでしたが、自分はがんとは切っても切れない関係にあるのだなと思うようになりました。その頃には「早期からの緩和ケア」ではなく「がんと診断された時からの緩和ケア」と言われるようになっていたと思います。自分ががんと切っても切れない関係にあるのだと思った時まず考えたのは、その後また再発や転移をすることがあるかも知れないということでした。その時に備えよう、と。
そこで、再発の翌年、主治医の先生にサイコオンコロジーの先生と緩和ケアの先生を受診したいと相談しました。しかし、主治医の先生からは、サイコオンコロジーの先生の受診はOKが出たものの、緩和ケアについては「まだ早い」と言われてしまいました。まだまだ緩和ケアは医療者からみても終末期のものと言うイメージが強いのだなと愕然としました。しかし、思いを伝え、主治医ではない他の医療者の方から緩和ケアにつないでもらうことができ受診が実現しました。ちなみに、そのことについて主治医の先生とその後関係が悪くなったということはありません。
再発が分かったこと、遺伝性のがんと分かったことでサイコオンコロジーの先生や緩和の先生に早い段階からかかりたいと思った理由は、どちらの先生も人気があり、いざ本当に困っている時にかかりたいと思ってもすぐにかかれないかも知れないし、本当に困っている時にかかり始めていては先生方と人間関係を築くまでに時間がかかるかも知れないという不安があったからで、最初の受診時からそのことを伝え、それでも良いという了解を得てかかり始めました。
そして、緩和ケアなどにかかり始めてから2年後に遠隔転移がわかり進行がん患者となりました。この時に一番緩和ケアにかかっていてよかったと思いました。いわゆるAYA世代で最初の告知を受けた時、周りには病気のことを相談できる人が全くいませんでした。再発時は、初発時に比べれば、主治医の先生だけでなく、他の医療者の方や患者会などで出会った患者の先輩や仲間も増えました。そして、再発後から緩和ケアなどにかかっていたことで、もちろん進行がんの告知がショックでなかったと言えばうそになりますが、初発時に比べ相談できる人がたくさんいて、しかもすでに人間関係もできている信頼できる緩和ケアの先生が居てくださったことはとにかく心強く、3度の告知の中で一番ショックが小さく、不安も小さかったです。
現在、緩和ケア科では痛みのコントロールや治療の副作用のコントロールに加え、症状や副作用のコントロールで緩和ケア病棟に入院し体調を立て直し、また日常に戻っていくということもさせてもらい、緩和ケア病棟にも慣れることができています。
今後どうしていきたいか、どのような最期を迎えたいかを緩和ケアの先生はじめ緩和ケアに関わる医療者の方々と話すこともあります。ACPは忙しそうな主治医の先生や、治療が終了して出会ったばかりの緩和ケアの先生とするのは私にはとてもできないと思っています。早い段階から出会って人間関係ができ、信頼できる先生とだからそういう話ができる、と思っています。「死が怖くない」と言ったらうそになりますが、安心して相談できる医療者の方々や、安心して過ごせる場所があるということはとても心強いです。
緩和ケアは、最期を穏やかに過ごすためだけのものではなく、がんと共に生きる者にとってはなくてはならないものだと思っています。 (企画担当者からのコメント)
マンガ動画を作成させていただいた体験談です。施設によっては、抗がん剤治療中だと緩和ケア病棟に入院できないこともありますので、各施設にご確認のほど、お願いいたします。

「初期からの緩和ケア、心も体も楽になります」その他のがん・40代・女性

(ご本人)
希少ガン、発症初期から緩和ケアにお世話になっています。
終末期だけではなく、初期からのケアを受けることができました。
家族や主治医に言えない悩みや、痛みに対しての緩和、
抗がん剤の副作用で食事が摂れなくなった際、緩和食で
チーズバーガーを出していただいたり、雑談をして笑ったり、
緩和ケアに対する概念が変わりました。

心も身体も楽になります。

「緩和ケアスタッフは前向きに生きるための最高の応援団」乳がん・50代・女性

(ご本人)
「たぶん乳がんだと思います。検査結果がでたら紹介状を書きますので、希望する病院が決まりましたら教えてください」

乳がんと確定診断されてはいないが、自分の中では突然のがん告知。
その時、日頃から健康を自負しかかりつけ医もいない自分には、病院を選ぶ方法すら皆目見当もつかなかった。クリニックの医師から近隣の手術可能な病院を3つ紹介されたが、なぜかピンとこなかった。

「がん」である。
自分の中でまず最悪の事態を想定する。「死んでしまう」。
そうなると、最後はホスピスで苦痛を緩和してもらいたい。それが最初に思い浮かんだことだった。ではそれはどこの病院なのか。治療よりも「死に場所」を決めるなんてどうかしている。でもがんと言われたショックはそんな行動すらおかしいとは思えないほど衝撃的だった。

まずはホスピス病棟もある地元の病院に行ってみる。古びた中堅病院だが、中の雰囲気は悪くない。「最期はここか…」そう思ったときにふと目に入った「がん相談支援センター」の文字。その場にいた看護師さんに尋ねると「標準治療はこちらでももちろん大丈夫ですが、病院はほかにもありますから調べてみてくださいね」と言ってがん専門病院が作成した治療に関するパンフレットをくれた。

その時、親戚に看護師がいることを思い出した。リストアップしてもらったがん専門病院にも勤務したことのある人だったので、藁をもつかむ思いで電話して状況を説明する。彼女はまさに精神看護の専門看護師だったので、私の状況を知ると病院選びのこと、今の気持ちやコンディションを聞き取り、落ち着けるようアドバイスしてくれた。

ほんの20分程度の会話だったと思う。でもその時、つらい思いや混乱した頭の中身を聞いてもらったことで、私は病院選びに必要な自分の希望を整理できた。それから実際に紹介状をもらい、がん専門病院の初診の日までの2週間。それが精神的にも一番つらかったが、それでもなんとか初診の日を迎えることができた。

がん診療拠点病院でもあるその病院では初診の受付の際「心のつらさ」がスケール(0〜10)で示され、私は8に〇をした。そして乳腺外科受診後に看護相談を受けさせてもらった。
その看護師さんとの面談は、その後治療が始まり術後の病理結果が出るまでの間4~5回、受診のたびに行い、話を聞いてもらった。それは私自身の心を整理するのに役立った。主治医に相談する内容も一緒に整理してもらった。この看護相談を受けられると思うと病院に行くのも楽しかった。寄り添い支えてもらい、心の苦痛を緩和してもらった。まさに「がんと診断された時からの緩和ケア」である。

そうして病理結果が出て、私は抗がん剤治療を受けることになった。
ここでまた私は不安になった。病院は信頼しているし、治療を受ける覚悟もある。ただ、未知の副作用をどう乗り切ればよいのか。その時の私の一番の不安は通院に2時間半かかる、ということだった。そこで私は病院の医療ソーシャルワーカーと相談し、自宅近くの内科に体調が崩れたときにフォローしてもらえるよう連携してもらった。内科ではあるが、緩和ケアや訪問診療もされている医師なので、がんのこともよく分かっておられるだろうと思っての選択だった。その後1年半、抗がん剤治療と分子標的薬治療を行ったが、幸い大きな副作用もなく、体調を維持することができた。紹介してもらった緩和ケア医とは特に体調に変化がなくても月に一度面談をしている。今は予防接種やちょっとした風邪やアレルギーなども診てもらっているが、基本は面談である。もしも再発かもしれないと不安になった時には一番に相談できる相手だと思って頼りにしている。

これらの出会いから丸3年が経過した。今は年に一度の定期検査の日に前述の看護相談で同じ看護師さんと面談をしている。幸い毎回笑いが絶えない近況報告の時間となっている。地元の緩和ケア医とも引き続き定期的に面談している。再発の不安を抱えながら生活する私にとっては、彼らとのつながりが前向きに生きるための最高の「応援団」である。

「元気になれたのは、早期緩和ケアのおかげです」乳がん・50代・女性

(ご本人)
私は2018年4月に乳がんと診断されました。がんのタイプが進行の早い化生がんかもしれないと言われ、自分はもしかしたら半年後にはこの世にいないかもしれないという恐怖に襲われました。
夜も眠れず、朝は起きた瞬間から恐怖に襲われ、ご飯も食べられない日々が続きました。毎日泣いてばかりいました。
手術が終わり抗がん剤が始まった時にも説明を聴きながらも涙をこらえられませんでした。そんな私を見て薬剤師さんががん専門看護師さんと話して行きませんかと声をかけてくださいました。
がん専門看護師さんから公認心理師さんにつないでいただき、週一回のカウンセリングが始まりました。そこから精神腫瘍科にもつないでいただきました。カウンセリングと投薬で少しずつ私は落ち着いていくことが出来ました。
早期緩和ケアというものを知りませんでしたし、自分程度で甘えたらいけないという思いもあり、自分からは扉を叩かなかったと思います。
私は病院の疼痛・緩和のチーム医療に救われました。今、患者会の代表をしたりするほど元気になれたのは、早期緩和ケアのおかげです。
本当に緩和ケアがあって良かったと思いますし、今泣いている方皆さんがこのケアが受けられることを望みます。

「病気だけではなく、患者本人の信条、信念も鑑み治療を進めていただけた」その他のがん・40代・男性

(ご本人)
骨盤に発生した肉腫により20年にわたり、治療を繰り返している患者です。8回の手術、粒子線等、機能温存を図りながらさまざまな治療を試みてきました。しかしながら、再発を繰り返したことや、再発箇所から判断し、骨盤を切除するという思い切った治療を行うことしか方法がない、との診断を受けその治療を行うことにしました。

治療は長時間に及ぶ大きな手術と、感染症により壮絶を極め、医療麻薬管理下で離床までに3ヶ月、退院までさらに3ヶ月を要するものとなりました。
長期臥床と耐えられない痛み、変化した体の理想と現実の乖離から回復のイメージをまったく感じることができず、生きる苦痛とストレスで自分自身を見失っていました。

緩和ケアとの出会いは、術後ICUから出てすぐだったと記憶しています。 主治医より緩和ケアチームにも入ってもらうからと伝えられ、一番最初に思ったのは、どうしてターミナルケアなんだ。そんな話は聞いていないということと一抹の不安でした。
15年近く同じ主治医のもと治療を受け、全ての事実が隠し事なく伝えられてきていたので、緩和ケアという言葉がもたらした衝撃によりさまざまな感情がでた記憶があります。

ところが、そんな不安な感情は杞憂に終わりました。

緩和ケアチームが最初に私に伝えてくれたことは、「私たちが行うのはターミナルケアではなく、あなたと一緒に身体的、精神的な苦痛を和らげるために一緒になって考えていきます」ということでした。
それから6ヶ月間、毎日毎日痛みのコントロール、心のケアが行われました。

心のケアでは今まで歩んできた人生観や退院後のゴールは何なのかをじっくり聞いていただき、患者自身が気がついていないことや、本当に望んでいることを具現化し、今できること、頑張ること、その時々で小さな目標(ゴール)を設定していただき、一歩一歩前進していくことができました。緩和チームがヒアリングした内容は医師、看護師、理学療法士とも共有されることで病気だけではなく、患者本人の信条、信念も鑑み治療を進めていただけたことが緩和ケアの存在意義として非常に大きいと感じています。

私たちが病気の治療を受け、退院するのは単なる通過点であり、その先のゴールまでの道のり、困難さはそれぞれ違うけど、その人に合った方法やロードマップを一緒に入院中から考えて支えてくださるのも緩和ケアの大きな役割の一部だと思います。

一人一人、病状が違うのと同様に、歩んでいく人生も違います。
ADLすら満足にできない体になったにも関わらず、私は復職という高すぎる目標を掲げていました。
その目標はのちに達成され今に至っていますが、入院中に出会った緩和ケアと緩和ケアチームのサポートがなければ今の自分はなかったと断言できます。その時には気が付かなかったことが今となって大きな実感として捉えられています。

治療中やこれから治療を始める方で、痛みや気持ちのつらさを抱えておられたら一度、緩和ケアを訪ねてみてはいかがでしょうか。そこから見える光がきっとありますよ。
(企画担当者からのコメント)
ADL:日常生活における動作のことです。

「早い段階から痛みなどのケアをしてもらえることを広く知ってほしい」その他のがん・50代・女性

(ご本人)
1年前に右母指爪下悪性黒色腫と診断され切除しました。幸いリンパ節に転移しておらず、ステージ0の上皮内癌との診断で経過観察をしておりました。術後、経過は良好。痛みは少しずつ減少していましたが、術後10ヶ月経った頃、指先の腫れと痛みに気付き受診。ステロイド軟膏で様子見。1週間経っても良くならず、バイ菌でも入ったか。という事で抗生剤を服用してみる。がしかし、腫れは治まるどころかますます腫れて来たため、これはおかしいとエコーで確認したところ、腫瘍が骨の周りをぐるりと取り巻いてました。皮膚表面には黒い部分はまったく無かったのでその時は再発は考えにくいとの事でした。その後も日に日に見るに耐えれないほど腫れ上がり、痛みもかなり強くなっていました。そして生検結果は、悪性黒色腫、メラノーマでした。原発との関連性があるとは思えない、まさか2つの原発?との事でしたが、母指の切断術の結果、白桃色の悪性黒色腫で、病理の先生方が原発との関連性を見つけ局所再発となりました。意外にも術前の痛みが強かったので、早く切って欲しいと言う気持ちでいっぱいでした。
最初に悪性黒色腫、メラノーマと診断された時は正直、最悪の事を考えました。が、元々ポジティブな性格だった事もあり、直ぐに現実を受け止め前向きに考えてましたが、さすがに1年以上痛みと戦っていると辛くなかったと言ったら嘘になります。母指切断後は、今度は新たな痛み、幻肢痛が現れました。そんな時、病室にぞろぞろと5、6人の先生、看護師さんが入って来られ、「私達は緩和医療チームの者です」と挨拶されました。
一瞬にして私の脳裏に「え?私そんなに悪かったっけ?」となぜ?と、ビックリでしかありませんでした。それもそのはず、その時まで、「緩和ケア」=「終末期」と思ってましたから。説明を聞く内に主治医の計らいで痛みのケアの為、緩和医療の先生にお願いした事が分かりました。緩和医療科、精神科の先生方の他、看護師さんに薬剤師さんまで親身に痛みからメンタル面まで聞いて下さり ました。その晩、皆様の優しさに触れ、夜になりベッドで初めて泣きました。自分でも「え?なんで泣いてるの?どうした?」とそれまで特に沈む事も落ち込む事もなかったはずの私が急に泣けて来たので、自分でも理解出来ませんでした。今思えば術後で不安定だったのだと思います。そんな時に緩和ケアチームの方々が病室に来て下さったお陰だったと思います。生まれてから〇〇年付き合った親指とさよならしたので、どんなに楽天家な私でも凹まないわけなかったのですね。現在、退院して1ヶ月が経過しましたが、外来で受診しています。これまで緩和医療科は終末期のイメージでしたが、ステージ2の私のように早い段階からの痛みなどのケアをなさって下さる事を広く知ってもらう事が出来ると良いなと思います!
術後の痛みで辛かった時に親身にケアして下さり、感謝の気持ちでいっぱいです。

「緩和ケアはより良く生きるためにより良い日々を守るためにある素晴らしいケア」肺がん・60代・女性

(ご家族)
緩和ケアは終末期だけではなく、抗がん剤を始める前から受けたらいいと思うんです。副作用の緩和も緩和ケアのほうがより細やかにケアしてもらえるし、治療を楽に受けられることを実感。
もっと早く知っておけばと思いました。

なので二度目の抗がん剤治療の際には緩和ケアチームの方に関わってもらったおかげで本人はかなり楽に治療が受けられたのではないかと思います。
楽になることで精神的なストレスも軽減され
食べることなどの楽しみを得られたりもしました。

その後、意欲も高まってきてやりたいことをやるようになりました。

副作用の苦痛やストレスが軽減されたことで、日々の生活が普通に過ごせたのでがんになって末期でも旅行したり、自宅で過ごせる時間をたくさん取れました。

このことにより本人も家族も大切な時間を共有することができ
本人も苦痛を最小限に抑えられました。

亡くなる前もひどく苦しむことなく
最後は眠るように永眠しました。

緩和ケアはより良く生きるために
より良い日々を守るためにある素晴らしいケアだと思います。

怖がらないで心地よい毎日を創るために
一つの手段として選んでみてほしいと思います。

その人らしさを支える緩和ケア

「これからも緩和ケアを受けながら緩和ケアに携って生きていければ、きっと私の人生は悪くない」その他のがん・30代・男性

(ご本人)
ちょうど研修医としての研修が終わって少し経った頃、左の膝にがんが見つかり、左足を失うことになりました。

どんなに頭では理解しているつもりであっても、自分で左足を切断する決断をすることには強い苦痛を伴いました。
その頃の私は何の景色を見ても色がついておらず、何を食べても味はわからず、どんな歌もただの虚しい音にしか聞こえませんでした。
そして体の痛みによって気持ちはさらに落ちこみ、ついに私は全く眠れなくなってしまったのです。

しかしそのような時に私は緩和ケアと出会い、辛い世界から救い出してもらったのでした。

私にとっての緩和ケアの良いところの1つは「話を聴いてもらえること」だと思います。私が本当に辛い頃、私は私に関わる医療者の方々に本当に丁寧に話を聴いていただきました。
そうやって話を聴いていただけると本当に驚く程気持ちが楽になるのです。
一方で私は医師としてこんなに丁寧に患者さんのお話を聴いたことはなかったと大いに反省させられたのを今でも鮮明に覚えています。

そしてもう1つあげるとすればそれはやはり「お薬」です。
特に医療用麻薬には随分助けられました。お恥ずかしながら、わたくし、お医者さんであるにも関わらず、最初に医療用麻薬をお勧めされた時に「え~、ちょっと嫌だな~」という気持ちが芽生えてしまいました。
しかしいざ飲んでみると特に変なことが起こることもなく、ただ痛みが良くなったのです(便秘が少々やっかいでしたが担当の先生にうまく対応していただきました)。
痛みが軽く穏やかに過ごせる日々はそれが何のイベントもない平凡な1日であったとしてもとても貴重で、ありがたいものでした。

そうして私はがんが見つかる前よりも鮮やかな色のついた景色を見るようになり、たくさんの美味しいものを食べ、いろいろな歌が心に響くようになりました。

それからも緩和ケアを受けているうちにいつしか私は緩和ケアを学ぶようにもなり、今では緩和ケアを提供する立場の医師として働くようになりました。


私のがんは、治っていません。
ゆっくりとですが今も確かに進行しています。
きっとこれからも大変なことはあるでしょう。

でも、

でも私は、

これからも緩和ケアを受けながら緩和ケアに携って生きていければ、きっと私の人生は悪くないものだと信じているのです。

「緩和ケアの支えで私たちは『大丈夫』を手にしていった」すい臓がん・70代・男性

(ご家族)
私の父がすい臓がんになり、治療をしないことを決めたときに、紹介してもらったのがY病院の緩和ケアに携わっているK先生でした。私は海外に住んでいるため、何もできないという焦りがあったのですが、緩和ケアの外来後帰宅した父と電話で話した時に父の穏やかな雰囲気にホッとしたのを覚えています。外来で、先生にそれは丁寧に話を聞いてもらったこと、父はどんな人生を歩んできたかを話したこと、そして、これからどんなふうに過ごしていきたいかを聞いてもらえたことなど、私はその場にいなかったのに、その場の雰囲気が手に取るようによくわかりました。父が「この先生に任せておけば大丈夫だよ。」と言った時、緩和ケアがなければいけない理由がわかった気がしました。
人は死に向かって歩んで行かなければならなくなった時、途轍もない不安に襲われます。さあ、これからどうしようと途方にくれる人も多いと思います。それは患者本人だけでなく、患者の家族にとってもです。でも、その傍らで一緒にこれからのことを考え、患者さんの気持ちに寄り添ってくれる人たちがいたらどうでしょうか。誰かに支えられているという実感を得ることができ、不安はなくならなくとも、心強いはずです。力をもらえるはずです。それが父の発した「大丈夫」という言葉だったと理解しました。父が「大丈夫」だと、私達家族も不思議と不安から解放されて「大丈夫」になるものなのでした。緩和ケアを通して、患者本人と患者家族が人生の最後をどのように過ごすかということを共に考え、その時間を共有しながら、ゆっくりと人生最期のステージへの準備をする。その過程は簡単なものではありませんが、緩和ケアの支えで私たちは「大丈夫」を手にしていったのだと思っています。父を通して私たちが緩和ケアに出会えたことを感謝しています。

「最期の時を大切に、自分らしく、それぞれの家族の形らしく」子宮がん・40代・女性

(ご家族)
母は元看護師でした。私は当時高校生でした。
手術を受けるも、病巣が思っていたよりも広く癒着をしており化学療法、放射線療法をするも病態は悪化し、治療をこれ以上続けるのかどうかとなった時、母は迷うことなく緩和ケアに進むことを希望しました。緩和ケアを受ける手筈が整ったころは、ある意味家族はまだ、気持ち的に置いていかれていたと思います。まだ諦めるには早いのでは、とか、なんで?!と。けど、そうやって無理矢理にでも母が他界するという環境を受け入れる準備をさせたかったのかもしれないなと思いました。あとは母一個人としての生き方だったのだろうとも。
緩和ケアを受けるとき、家族もケアの対象者となるのでたくさんの看護師さんたちが私たち家族と関わってくれました。
母にとっては苦痛の緩和、死への準備、自分らしく生きる瞬間の模索ができ、
家族の私たちにとってはたくさんの人に支えられ、時には家族会議でみんなで泣きながら感情をぶつけ合って、残される家族の形を築き、母との別れの準備をさせてもらえたと思っています。
母が緩和ケアを受けている期間は私と母が過ごした時間の中ではほんの一部なのに、母との思い出を思い出す時、ほとんどが緩和ケアを受けていた間の体験や会話や、母の姿を思い出します。
たくさんの素敵な言葉、悲しい言葉、心がはち切れそうになるような気持ち、自分と向き合う時間など、
今思えばなんて貴重な時間を経験できたんだろうと思うことがたくさんあります。
そして、その経験を経たことにより、私自身最後は緩和ケアを積極的に受けたいと思っていますし、ご家族のことなどで悩んでる人がいたら体験を共有するようにしています。最期の時を大切に、自分らしく、それぞれの家族の形らしく過ごすのには緩和ケアが一番だと!声を大にして言いたいです。

「治療で落ち込んだ時いろいろ話を聞いてくださり感謝している」喉頭・咽頭がん・70代・男性

(ご本人)
団塊の世代の私はがん=死のイメージが強い。
定年退職後、少しでも豊かな老後を送ろうと仕事を再開し75になったら辞め、家内と海外旅行に行こうと思っているやさきの癌宣告であった。
今まで考えなかった死と向き合う
考えても考えても答えが出ない癌との生き方、死に方。
家内に言っても、なるようにしかならないよ的な答え。
本当に親身になって話を聞いてくれる人が欲しく外来に来るたびに心療ケアセンターの入り口まで来たのだが、門をくぐる勇気がなく。
やっと思い切って門をくぐったのが最後の外来の時であった。
入院して治療のことも心配であったが、どうやって癌と向き合えばいいのか、どうやって死と向き合えばいいのか、聞きたかった。
いろいろと事務の方に話し、心療ケアの先生を紹介していただき、話を聞いてもらった。
私の、全ての悩み、疑問を時間をかけて聞いてくださり豊富な経験、知識から、適切なアドバイスをしてくださり、話し終えた時には私の中にあったモヤモヤが全て無くなっていた、なぜもっと早くこの場所に来なかったのか?自分の勇気の無さをなげいた。
入院中も度々部屋にきてくれ、治療で落ち込んだ時いろいろ話を聞いてくださり感謝しているる。
私のつまらない話も親身になって聞いてくださり、話す事でストレスも無くなり、本当に緩和ケアを受けて良かった。
残りの入院中も緩和ケアにお世話になりながら頑張りたいとおもっている。 (企画担当者からのコメント)
文中の「心療ケアセンター」とは、通院中の病院の「緩和ケア外来」とのことでした。各施設で名称が異なる場合がありますが、緩和ケアのご相談は「緩和ケア外来」や「緩和ケアセンター」あるいは「がん相談支援センター」などの部門におたずねください。

「緩和ケア科を受診することなく、緩和ケアというものを受けていたのではないか」脳腫瘍・40代・男性

(ご家族)
2019年に40才の夫を脳腫瘍で亡くしました。約3年間の闘病生活に、緩和ケア科にかかることはなく、我が家は緩和ケアを受けた経験はないと思っていました。緩和ケア科もあるがん専門病院に通院していましたが、私たちから受診を希望することもなく、脳外科主治医から受診を勧められることもありませんでした。

夫を亡くした直後には、もしも緩和ケアを受けていたら、終末期のつらかった時期をもう少し良い時間にできたのではないか、どうして緩和ケアを受けたいと自ら希望をしなかったのか、と考えました。ただ、時間が経つにつれ、お世話になった方々を思いおこす中で、緩和ケア科を受診することなく、緩和ケアというものを受けていたのではないかと感じるようになりました。

脳腫瘍と診断された直後から、夫には高次脳機能障がいが強く出ており、本人だけではなく、私や子ども達など家族の生活にも大きな影響がありました。そのことを理解し(または理解しようと)、脳外科の先生方、リハビリ科の療法士さん、看護師さん、患者サポートセンターの方々、通所で通っていた障がい者支援施設の方々、ケアマネさんなど、我が家を取り巻く多くの人が介入してくれていました。

その中で、何に困っているのか、何を大事にしたいのか、いつもたくさん話を聞いてもらっていました。家族で旅行に行きたいと伝えた時も、「お守り代わりに持っていって」と万が一のための準備をしてくれたり、「大丈夫だから楽しんできてね」と笑顔で送り出してくれたり、全力で応援してもらいました。自力での歩行が難しくなって介助に困難を感じたときも、皆さんがアイデアを出してくれて、どういう手段をとったら自宅での生活が続けられるか考えてくれました。

病状の変化にともなって、その時その時で変わっていってしまう気持ちをしっかり受け止めていただき、「大丈夫だよ」と支えてくださったことが、我が家にとって最大の緩和ケアだったのだな~と思っています。治療を受けていた診療科から緩和ケア科に移行するような形ではななく、治療を受けながら、自然と、本人や家族をサポートしてくれるようなケアを受けられた事に大変感謝しています。

「“緩和ケア”、それは特別なものではない」肺がん・60代・男性

(ご家族)
私は緩和ケアに携わっている看護師です。そして、父を肺がんで亡くした家族でもあります。今回は、家族の立場から、緩和ケアについてお話ししたいと思います。
皆さん、“緩和ケア”について、どのようなイメージをお持ちでしょうか?多分、良いイメージを持っている方は、あまりいないと思います。「最期は苦しみたくない」「痛いのだけは勘弁してほしい」という感じでしょうか?
では、皆さん、人生が終わる最期の時までどのように生きたいでしょうか?「好きなことをずっとやっていたい」「家族と楽しく過ごしていたい」そんな声が聞こえてきそうです。

私の父の話です。パチンコ大好き、競馬大好き、タバコ大好き、仕事で稼いだお金は、全て賭け事に使ってしまう、という父でした。肺がんの告知を受けたときは、「治らないのなら抗がん剤治療はやらない。自分の好きなように生きる!好きなように生きて死ねたら本望!」と言っていました。私たち家族は、父の性格を十分知っていたので、好きにさせようと、半ば放置している状況でした。仕事を片付け退職し、パチンコと競馬三昧の日を送りました。息苦しさがあっても、貯金が0円となるまで、パチンコに通いました。たばこも、これ以上吸えないというところまで吸いました。
全てをやり切った後、「もう満足!俺は、8月20日にあの世に逝くからな。」と宣言し、訪問看護が介入しながら、自宅で普通の生活を送りました。在宅酸素を使用し、息苦しさを和らげるために、医療用麻薬を使用し、最期までポータブルトイレに移り、訪問入浴を行いました。私たち家族は、大変と思ったことは一度もなく、家族も普段とほとんど変わらない生活を送っていました。そして、家族全員がそろっていた、8月19日の夜中0時過ぎ、「たま(玉)・・・!」という最期の言葉を残し父は旅立ちました。私たち家族は、「え…?玉ってパチンコ玉?」と顔を見合わせ、笑いながら父を見送りました。「おーい、じいさん。1日あの世に逝くのが早いぞ…」と。※戒名には「玉」という文字をお坊さんに入れてもらいました。

“緩和ケア”、それは特別なものではないと思います。患者本人だけでなく、残される家族も自分らしく生きるためのケアだと思います。最期までどう生きたいか、自分はこうしたい!とわがままに考えたときに、緩和ケアが必要となる。緩和ケアがあって良かったと父を看取って思いました。

ご自宅でも受けられる緩和ケア

「緩和ケアとつながることができて、「死」についてのイメージが少し変わった」大腸・直腸がん・70代・女性

(ご家族)
2018年12月、母の大腸がんが発覚し、翌月に手術をしました。そのあとすぐ、抗がん剤治療も始まりましたが、腹膜播種となり、いくつかの抗がん剤を試しましたが、思ったような結果は出ず、2020年夏ごろから緩和ケアの在宅医にも併用して かかるようになりました。
緩和ケア=死というイメージが母はあったかもしれませんが、私はいろいろな情報を集めていた過程で、緩和ケアに早くつながりたいと思っていたので少し安心しました。母も大病院の主治医とは違って、緩和ケアの在宅医がパソコン画面ではなく、母の目を見て診察をしてくださることに安心していた様子でした。
その年の12月、急に母の体調が悪化し、抗がん剤治療は中止となり、緩和ケアの在宅医のみにかかることとなりました。その際、大病院の主治医や看護師は緩和ケアのある病院へ入院することを強く勧めてきましたが、コロナの影響もあり、病院に入院すると母に思うように会えないのではないかと思い、家で母をみることはできないかと相談してみました。そうすると、主治医は「あなたが24時間お母さんをみれる の?」と言い、その言葉にショックと腹ただしさ でいっぱいになり、その足で、緩和ケアの在宅医に相談しました。もちろん母の意向も聞きましたが、はっきりとした返事を得ることはできませんでした。今思えばすぐに答えを出すことはできなかったのだと思います。治療ができない=死が近いと思ってショックだったのだと思います。
在宅医は「病院でしかできないことはない。家でもちゃんとできますよ」と言ってくださり、訪問看護にもお世話になり、私も介護休暇を取り、自宅で母のサポートをしました。
母は12月末に亡くなりましたが、緩和ケアの在宅医が往診に来るときはとても元気でした。在宅医の顔を見ると安心していたようです。その様子を見て、在宅医は最期の1週間、ほぼ毎日顔を出してくださり ました。私たち家族もとても心強かったです。最期まで人間らしく、母らしく過ごせたのは緩和ケアがあったからこそです。
死は必ず訪れます。大事な人が死ぬと思うともちろん悲しい、つらい気持ちでいっぱいですが、緩和ケアとつながることができて、「死」についてのイメージが少し変わった気がします。母が最期まで生ききることができ、1秒1秒が愛しい時間でした。そんな風に思えたのも緩和ケアがあったからです。

「いかに患者の生活の質を向上させるかが緩和ケアの本質」その他のがん・70代・女性

(ご家族)
私の母は、がんの診断を受けてから、入院と通院を繰り返しながら抗がん剤によりがんの治療を続けていました。約3年半経過したあたりで抗がん剤による体力低下が著しくなり、治療を続けることが困難になりました。治療の主治医からこの時点で余命3ヶ月と宣告され、緩和ケア科のある病院に転院しての療養に切り替えることとなりました。

緩和ケア療養に切り替えてから、がんの治療をしていないにもかかわらず体調が徐々に回復していきました。治療を中止したことで抗がん剤の強い影響がなくなったこと、適切な痛み止めによる緩和が功を奏したと思われます。想定以上に元気になったせいか、療養病棟で過ごすことに苦痛を感じる程となったため、約半年経過後に自宅療養に切り替えました。

ただ自宅療養するということは、私が母の介護を直接行わなければならず、経験のない私は介護ができるのだろうかという不安を強く感じていました。しかし緩和ケア科と訪問看護スタッフやケアマネージャーの連携と協力により、経験のない私でも安心して母の介護に専念することができました。

緩和ケア科には月1回の通院で対応し、処方された痛み止めのシールを毎日交換しながら痛みのない状態を保つことで、穏やかに自宅療養を続ける事が出来ました。自宅に戻ったことで生きる気力も再び湧き、好きだったカラオケ仲間との集まりにも行けるようになり、とても余命3ヶ月と言われた患者とは思えないほどの回復ぶりでした。

1年を過ぎて少しずつ体力が落ち始め外に出ることは少なくなり、2年を過ぎたあたりで痛み止めの効き目が落ちてきました。病気の性質上、骨に影響が出るため、緩和ケア科から院内の整形外科を紹介され、まだ体力的に適応できるということから骨を支持する手術を行いました。それにより強い痛みは緩和され、更に自宅療養を続ける事ができました。

手術以降は緩和ケア科による訪問診療に切り替え、主治医が2週間に1回、自宅に訪問していただき診察することができました。そしてそれから約半年後に天寿を全うすることとなりました。看取りの際は夜中にもかかわらず、訪問看護師経由で主治医に来ていただき、最後の確認をしていただきました。

余命3ヶ月と言われながら、がん治療ができないにもかかわらず、その後約2年半に渡り、母が生き続ける事ができたのは緩和ケアによるものと言って過言ではありません。緩和ケアは単に痛みを和らげるということではなく、司令塔としての訪問スタッフや院内での連携等、患者を取り巻く環境全体に目配りしながら、いかに患者の生活の質を向上させるかが緩和ケアの本質なのだろうと、母の療養介護の経験から実感しました。

母の介護が終わって約2年半経ちましたが、今でも緩和ケア科、訪問スタッフ等への感謝は忘れられません。

「余命宣告より3倍以上生きられたのは緩和ケアに切り替えたから」その他のがん・80代・男性

(ご家族)
忘れもしない2019年10月13日。
「お父さんに殺される!」
母からの電話だった。何を言っているのか訳がわからなかった。父は末期癌で自宅療養だった。その頃にはもう歩くことができなくなり、一日中ベッドの上で過ごしていた。そんな父が起きあがり母を押し倒し、自分の鼻についている酸素チューブを剥がし母の首に押し当て、鬼の形相で母を睨みつけたという。
 なんとか父を押し退け、隣の家に電話をし助けを求め、次に私に電話をしてきたのだった。私にすぐに来てと言っても5時間はかかるのに…。
「隣の夫婦来てくれたから切るね」
と言われ電話は切れた。
 どうすりゃいいんだ私。涙が止まらない。5時間かけて実家に帰った。
 家に着き母、隣の夫婦、訪問診療をしてくださる医師と話をした。
 隣の夫婦が家に来て父に
「どうしたん?」
と話しかけると父は
「助けてください。殺される。」
と言ったそうだ。医師によるとそれは『せん妄』だと。せん妄なんて言葉初めて聞いた。父は医療用麻薬を使っていた。その麻薬と酸素も刺激になっている。やっぱり麻薬は魔の薬なんだと思った。麻薬と酸素を止めることにした。もしお母さんに危険が及ぶ事になったら入院も考えた方がいいんじゃないかと提案された。母は頑なに拒んだ。病院に行ったらベッドにくくりつけられすぐ死んでしまうと。元看護師としての意地もあったのかもしれないが母の愛だろう。
 父の癌発覚から1年になろうとしていたがその間、母は家をリフォームしたり介護用品をレンタルしたり訪問医療はもちろんのことものすごい知識とつてを使って生活していた。私達家族もほんの少しは手伝っていたけど今回は違う。母は私に
「もう少しいてくれる?」
と。ここから母と私の本格的介護生活が始まった。不思議と下の世話も嫌ではなかった。子育ての経験があるからなのか自分の親だからかはわからなかった。麻薬を止めるとおかしな言動もなくなり普通に会話することもできた。
 父は肉腫という皮膚癌だった。色々やってはみたものの癌は増殖する一方で余命数ヶ月と言われ緩和ケアに移った。しかも自宅へ帰りたいという父の願い、自宅でできるとこまでやってみたいという母の決意のもと、それを支えてくださる地域医療の皆様の協力を得て自宅療養だった。
 余命宣告より3倍以上生きられたのは緩和ケアに切り替えたからだと思う。さいごの1ヶ月に騒動を起こしてしまったがそれ以外は本当に穏やかに過ごしていた。緩和ケアにして自宅療養にして本当によかったと思っている。 (企画担当者からのコメント)
せん妄は薬剤の影響以外にも症状や環境の変化などさまざまな原因によって起こります。もしせん妄の原因について気になることがありましたら、主治医や担当医にご相談ください。

緩和ケア病棟での穏やかな日々

「一杯のコーヒーで始まる緩和ケア病棟の朝」肺がん・80代~・女性

(ご家族)
もう15年ほど前の話です。母は7年闘病した肺がんが末期に差し掛かり「もう痛いのは嫌や」と3回目の手術をしないと決めていました。当時私はニューヨークの大学で臨床心理の博士課程を取り、サイコロジストとしてキャリアをスタートしたばかりでした。もう母には辛い思いをして欲しくない、でも生きてほしいという自分自身のグリーフの中で葛藤している時、ふとインターンシップの病院先でホスピスでお父様を看取ったという医師のレクチャーを思い出しました。ホスピスは日本にもあるに違いないという藁をもすがる気持ちでオンラインで探したのです。いくつか候補を見つけ、在米の姉と実家の近くに住む兄とも相談し、早速兄が現地で動くこととなりました。

母が入所した「ホスピス」はホスピスとは呼ばれておらず、病院内に設置された緩和ケア病棟であることがわかりました。設立されたばかりかと思うほど、ま新しく、病院の一部であるとは思えないほど、ゆったりと落ち着いた時間が流れている場所でした。見舞いに行くと、母はいつも看護師さんたちとの心和むやりとりや、心遣いについて話してくれたものです。何より母が喜んでいたのは、毎朝コーヒーを入れてくださることでした。

母は大がつくほどのコーヒー好きで、家の台所の電子ポットのそばには、大好きなインスタントコーヒーの瓶がいつも置いてあったほどです。朝起きてまず一杯、朝の掃除や片付けが終わったらまた一杯、家族の食事や家事がひと段落しては一杯と味わうのでした。

緩和ケア病棟では、朝一番で看護師さんがコーヒーを入れてくれていたそうです。いつものインスタントコーヒーを母がいつも飲むように、クリーマーを一つ入れて。それはまるでお客さまに出すようなキレイなソーサー付きのコーヒーカップで運ばれてきます。母は「まるでお姫様みたいにあつこうてくれる」と嬉しそうに、気恥ずかしそうに話してくれるのでした。母はそうしたいつものコーヒーで始まる朝を10日ほど過ごして、安らかに旅立ちました。

たったの10日であっても、緩和ケアを受けることができたのは、奇跡的な偶然と、家族内の理解と連携があったからです。もし母が一番恐れていたのが痛みであるということを家族が知らなければ、もし私がインターンシップ先でホスピスの話を聞いていなければ、もし緩和ケア病棟が3ヶ月待ちであったならば、母は重篤な状態となって、病院で息を引き取っていたでしょう。

久しぶりにあの頃の記憶が蘇りました。
母を思い出しながら、今朝はコーヒーを入れてみようと思います。

「美味しくて、今日は食べ過ぎちゃった!」白血病・60代・女性

(ご家族)
先月亡くなった叔母は、白血病の薬の副作用で吐き気を催していたのを緩和ケアの先生にコントロールしてもらったら、「ご飯が美味しい」と言って、亡くなるその日まで「食」を楽しむことが出来ました。食卓を皆で囲むという、がんの末期ではなかなか思うようにいかないことさえも叶いました。
食べられなくなって旅立つより、食べて笑って旅立てたことは本人は勿論、私を含め患者家族の心情に対しても有難かったです。
最期の頃、何度か聞いた叔母の「美味しくて、今日は食べ過ぎちゃった!」の明るい笑い声、忘れません。

「緩和に入院した初日の義父のホッとした顔」肺がん・80代~・男性

(ご家族)
夫婦で母親を癌で亡くし病院で何も出来ない後悔、自分達を責めていた私達。義父が肺癌末期の状態になり緩和ケアに入れてあげたいと気持ちは大きくなりましたが正直すごく悩みました。一番は金銭的理由です。ギリギリまで我慢して我が家にいてもらいました。最初に医師と話をした時義父は良くここまで頑張って来た事や家族の私達にも労いの言葉をいただきました。緊張がほどけましたね。
緩和に入院した初日の義父のホッとした顔、身体中謎の湿疹が酷くて眠れない日々で訪看さんに薬をもらってもあまり改善しなかったり息子(主人)がお風呂に入れていましたが病院で手足を伸ばして洗ってもらえてゆっくり湯船にまで入れてホントに気持ち良かった、謎の湿疹もすぐに改善。こちらが金銭的にも良かれと思っていた在宅介護が息子の家に来て申し訳ない。と余計ストレスだったのだと思いました。本当にホッとしたのでしょう。あの笑顔は緩和にいないと見られなかったです。
痛み止めの薬を入れてもらいぼんやりと話をしながら入院2週間で最後は皆に見守られ大好きな義母のいる天国へ向かいました。
緩和=人を穏やかにしてくれる場所でした。
義父を見送った事後悔はありません。 (企画担当者からのコメント)
ぼんやりしている、眠気が強いなどの場合は薬剤の調整でよくなることもあります。医療スタッフにご相談ください。

「柔和に笑う祖父を見るのは久々だった」胃がん・60代・男性

(ご家族)
私が中学生の頃、祖父が胃がんで入院した。
手術は成功かに思われた。が、程なく転移が判明し、リンパに転移している事が判明。
緩和ケアに入った。
祖母は毎日付き添い、週末に洗濯など持ち帰る日々になった。
入院前は荒れに荒れ、元々のお酒好きが更にお酒に溺れ、飲酒運転で単独事故を起こしたり、夜な夜な勝手に飲みに出たり、お神酒や料理酒にまで手を出し、揉め事ばかりだった。
入院してから必然的にアルコールと決別し、これまで働き詰めだった祖父母に図らずして夫婦水入らずの時間が出来た。これまでの空白を埋めるかのように他愛ない会話をし、2人の顔は実に穏やかだった。
そんな中、いよいよ最期が近いと連絡を受けた時、間の悪い事に私は修学旅行中だった。行くのを躊躇う私に「大丈夫だから、行ってきなさい」と背中を押してくれたのは祖母だった。後ろ髪を引かれる思いの中参加しつつがなく修学旅行を終え、祖父のお見舞いに行った。柔和に笑う祖父を見るのは久々だった。
その数日後、祖母の誕生日に祖父は静かに逝った。
まるで「自分を忘れるな」と言わんばかりの、実は寂しがりで小心者な祖父らしい最期だった。
棺に入った祖父の顔はとても穏やかで、祖母との時間を持てた事、そして何より医療従事者の皆様の昼夜問わず丁寧なケアの賜物だと、心から感謝の念に堪えない。
祖父母の時間を支えて下さり、ありがとうございました。

「在宅もいいですが、もっと多くのホスピスができれば」肺がん・80代~・女性

(ご家族)
87歳の⺟は肺がんで、しかし治療を拒んでいたため、2年ほど経過観察が続きました。このまま、がん が治るのではないかと、本⼈は思っていたようでしたが、残念ながら少しずつ肺ががんに蝕まれていま した。
⼀昨年の年末、一人で暮らせなくなったと電話がありました。⺟は 一人で⼀軒家に住んでいました。問題は、キッチンとリビングが2階にあることでした。階段の上り下りがとうとう出来なくなったのです。本当なら、最後まで⾃宅で過ごさせてあげたかったのですが、どう考えても、この間取りでは、どうしようもありませんでした。
もう⼀つの問題は、在宅介護の先⽣に、オムツの使⽤を承諾してくれなければ看られないと⾔われたことでした。私は仕⽅がないと思って聞いていましたが、⺟にとっては受け⼊れ難いことであったようで す。
この⼆つの問題を解決するために、⺟を私の家の近くのホスピスに⼊居させることにしました。4ヶ⽉後、⺟はここのホスピスで亡くなることになるのですが、⼈⽣の最後に本当に素晴らしいスタッフに恵まれて、不本意ではあったけれども、そこで看護師さんに尊厳を持って接していただきながら最後を迎えることができました。肺がんの末期は、ご存知のように呼吸困難があり、酸素や、モルヒネなど、ほぼ24時間体制で医療従事者の⽅にお世話になるため、⾃宅での介護はうちの場合は不可能でした。もちろん、私が頑張れば出来たかもしれません。しかし、私もがん患者で、体⼒的に⺟の希望を叶えるには私の⽅が参ってしまうと考えたからです。そういう様々な事情を汲んでくださり、なおかつ、かなり要望が多く正直少し認知症気味だった⺟に、ずっと寄り添ってくださったスタッフの⽅々には感謝の⾔葉しか、⾒つかりません。意識がなくなるまで、看護師さんにトイレに連れて⾏ってもらっていました。在宅だったら絶対に出来なかったことです。そして、最期まで⾃分でトイレに⾏けたことは、彼⼥にとっては何よりも⼤事なことだったと思います。最後意識がなくなった時も、「お⺟様の好きな飲み物はなんですか?お⼝を湿らせるのに、好きなものを飲ませて差し上げたいので。」と提案してくださいました。(それは 30代ぐらいの男性の看護師さんでした。)最期は⼤好きな濃茶を⼝に含んで亡くなりました。
最近、最期は⾃宅で、とよく⾔われていますが、本当にみんながそうなのでしょうか?確かに⾃宅で最期は望ましいことかもしれません。しかしながら、場所や家族の状況などを考えると、誰もが出来ることではありません。在宅介護⾄上主義にはならないようにお願いしたいです。私は⼀⼈娘で、⺟との関係は深かったですから、出来る限り願いを叶えてあげたかったですが、在宅介護だけは私が⾃滅するとはっきり思いました。⾃宅で看取ることはできませんでしたが、スタッフの⽅と相談して、⾃宅の様⼦を⽣配信するという⽇を作りました。看護師さんがつきっきりでiPadで⺟に動画を⾒せてくれました。私と孫が実家に⾏って、庭から家から、引き出しの中まで全て⾒せて、話をしながら持ってきて欲しいものがあったら持っていくという楽しいイベントになりました。コロナ禍もあり、⾯会もままならない時がありましたが、常に看護師さんが私たちの分まで⾒回って話を聞いてくださっていました。ホスピスという空間で、必要最低限の薬品で痛みをとっていただき、最期まで⾃分らしく過ごせた⺟は、幸せだったと思います。在宅もいいですが、もっと多くのホスピスができれば、もっと穏やかな最期を迎えられる⼈が増えるのではないかと思いペンを取りました。⼩さなエピソードは、いいことも悪いこともたくさんありましたが、書きけれません。⺟の最期の4ヶ⽉間は、かけがえのないものとなりました。緩和ケアは、⼼のケアだと思いました。スタッフの皆さん⼀⼈⼀⼈の優しい⼼遣いが、彼⼥の最期を彩ってくださいました。本当に⼼から感謝しています。 (企画担当者からのコメント)
緩和ケア病棟に入院できる期間は施設によって異なりますので、各施設にご相談ください。

「急遽運び込まれた病院で治療から緩和ケアへと連携して対応していただけたことは幸いであった」肺がん・70代・男性

(ご遺族)
2015年初夏に肺がん末期で倒れた父は、なんどかの入退院を経て治療の後、晩秋に同病院の緩和ケアにお世話になりました。父は会話も辛そうで、また、長らく疎遠にしていたという事情もあり、込み入った話がしづらい状況でしたが、相談員や看護師さんにはその時々のことだけでなく、亡くなったその先の手続きのことなど親身に相談にのっていただきました。闊達な看護師さん、朗らかな担当医の先生の存在にとても助けられました。ケア病棟に移って3日ほどで意識混濁となり、数日後に亡くなったので思いがけず短い期間でしたが、苦しむ様子もなく、看取りのプロの方々に見守っていただき、心強くいられました。
緩和ケア病棟といっても同室の方は食欲もおありのようで、皆さん様々だったと記憶しています。また、小さなキッチンもあったので、意識があるうちに何か温かい手料理をふるまえたら良かったと少しばかり悔やまれました。こぢんまりとした談話室や緑のある屋上庭園もあり、見舞う方も一般病棟の方と一緒になることもないので穏やかなひとときだったと思います。
父が亡くなって半年後ほどだったと思いますが、遺族の会のお知らせをいただきました。家族といっても父への想いは母、兄弟ともそれぞれであったので、特に伝えず単身で伺いましたが、悼む気持ちがまだふつふつと胸にある時にその気持ちを言葉にできたこと、久しぶりにお世話になったスタッフさんと思い出話ができたことはとてもありがたく思いました。思えば、偶然とはいえ、急遽運び込まれた病院で治療から緩和ケアへと連携して対応していただけたことはつくづくと幸いであったと感じています。地域の中核病院には小規模であっても緩和ケア病棟を設けていただけたらと思います。

「緩和ケア病棟で過ごした家族の時間」その他のがん・50代・女性

(ご家族)
母が3か月ほど緩和ケアを受けていました。
緩和ケアがあってよかったと思ったのは、広い個室で家族一緒の時間を過ごせたこと。特に父は母が緩和ケア病棟に入院してから亡くなるまで、ずっとその個室に泊まることが出来て夫婦の時間を過ごせたので良かったと思っています。
遠方の家族や母の知人がお見舞いに来ても、誰に気兼ねすることもなく母と話をすることが出来て幸せだったと思います。
また、ちょうど入院中に母の誕生日があり(還暦でした)、誕生日パーティーをさせてほしいと病院にお願いをしたところ、ホールを利用させていただくことが出来ました。飾り付けをして母の友人や家族にも参加してもらえて、記念写真を撮ったりして、良い思い出になりました。 (企画担当者からのコメント)
現在、新型コロナウィルス感染拡大をうけ、緩和ケア病棟でのご面会や夜間の付き添いについて制限を設けている場合があります。各施設により対応が異なりますので、各施設にご相談ください。

「がん治療ははじまった時から作戦会議が必要で、最後ではなく最初から緩和ケアが必要」すい臓がん・60代・男性

(ご家族)
亡き夫のことをおもう時おもい出すのは、必ず、抗がん剤(分子標的薬だった)を飲む時の苦しそうな顔だ。難度の高い手術(15時間要した)をセカンドオピニオンをうけて名医に執刀してもらい成功した時、私と彼は「助かる!」と希望をもった。しかし、末期がんでの治療だったため、手術をうけてもすぐに別の臓器への転移がみつかり、抗がん剤治療が必要となった。この治療になってから、すぐに様々な副作用がでて治療は思うように進まなくなっていった。頼りにしていた主治医は、最初は励ましやわらかい表情で温かい言葉をかけてくれたが、いつしか投げやりな態度になっていき、心細さは募るばかりストレスフルな治療へと変わっていった。
薬を飲む時、夫は、「もうどうでもよくなったなぁ~」と愚痴り、それでもしぶしぶ薬をかかさずに飲んでいた。吐き気や食欲減退はなかったが、倦怠感が大きく、足のむくみが激しく歩行困難となったが、体力をつけなければと自宅の階段を時間をかけて上り下りしていた。生きることをあきらめず、そのために抗がん剤が必要ならば、我慢強く飲み続けた……。

しかし遂に、その時がきた。呼吸困難となり緊急入院した際、夫が終末期にはいったことを主治医から知らされた。積極的治療はできず、緩和ケアにきりかえる。緩和ケアをどこでうけるかは自由に選択可能と。「助からない人より見込みのある患者さんを優先する」といわんばかりの態度で腹がたった。まるで人生の落伍者扱いされているようで、みじめで悲しく、悔しかった。助けてほしいと願っているのに、きちんと受診し薬をのみいうこときいて、きちんと支払いもしているので、まるで切り捨てられたように感じた。師走の木枯らしのふく時期で、まさに身も心も寒々だった。

もしもの時は、住み慣れた家で在宅診療をうけ、自分らしく最期をむかえると決めていたため、すぐに退院して在宅治療へときりかえた。するとすぐに、在宅診療(緩和ケア)医、看護師、薬剤師、ケアマネなどのスタッフが出入りするようになった。最初のうち、夫はまだ終末期だということを受け入れられず、「元気になったらまた抗がん剤を投与してくれ」といってドクター(在宅診療医)を困らせたこともあった。
退院してからは一人で入浴しトイレにいっていたのに、急な坂を転がり落ちるように、夫は普段できていたことができなくなっていった。そして、ある日の夜中、トイレにいった彼は、歩いて数歩の位置にある介護ベッドにたどり着けなくなってしまった。それ以降、ベッドで過ごすようになった。
毎日、交代で4人の看護師がきてくれてかいがいしく世話をし、世間話をした。大病院にはない和気藹々とした温かい診療をうけるうち、彼はある日、言った。
「抗がん剤やめてよかった・・・」と。
介助すれば歩けるようになり、食欲がもどり、笑顔がもどり一時的に持ち直した。
奇跡がおきるかもしれない・・・ふとそう思った。
人と話すことが好きな彼は、楽しそうに笑いたくさん話し、人間としての尊厳を取り戻したように思えた。

人の最後は、神様しかわからない。家族がどんなに奇跡を信じても、その時はやってきた。
在宅診療1か月経過し、69歳になったばかりの1月、午前中に看護師がやってきてケアをしてくれた後、眠くなったからひと眠りするよ、といった彼はそのまま目を覚ますことはなかった。脳血栓で意識がなくなり眠るように旅立った。
終末期と知らされても、そんなはずはない。強運の持ち主の彼はこれまで幾度も困難にうちかってきた。そう信じてきただけに、夢をみているようだった。
ふと、在宅診療医(緩和ケア)の「もっと早い時期にかかわることができたらと思っています」という言葉を思い出した。
生まれ育った家で、妻である私にみとられ、地域の医療スタッフにあたたかく見守られ、尊厳を取り戻すことができたのが、誇り高い夫にとってせめてもの救いだったと信じている。眠るように一瞬で息を引き取ったのだから、きっと痛みなど感じなかっただろう。その点で、やはり幸運だったのではないだろうか。

がん治療ははじまった時から作戦会議が必要で、最後ではなく最初から緩和ケアが必要だと思っている。もちろんそれは、がんに特化せずがん以外の病気をわずらう患者さんや、彼らを介護する家族にとっても必要不可欠なものである。
2年半のがん闘病の末、最愛の夫がなくなり、丸3年がたった。二人三脚の闘病中は不安と恐怖に、夫を失ってからの3年は深い喪失感との闘いだったが、ようやく精神的に落ち着いてきたように思える。
彼を失ったばかりの頃は、別の病院にすればよかった、別の治療方法があったかもしれない、もっと優しく接してあげればよかった、もっと栄養価のたかいものを食べさせていればよかったなど後悔の念ばかりで自分をせめていた。
なかなか死をうけいれられなくて、彼がいた時と同じような日常をおくっていた。仏壇にお供えをし、一緒にご飯をたべ、写真にむかって話をし、誕生日を祝い、記念日に花を飾った。返事がないことに愕然とし、自分は何をやっているのだろう、頭がおかしくなったのかもしれない、と思ったこともしばしば。
親身に話をきいてくれる2人の姉が、「たくさん故人をしのんで、たくさん泣いて、それですべて大丈夫。何年かかったっていい、好きなだけ思えばいい」といわれて気持ち的に楽になった。何気ない他者の言葉が重く感じられることも多々あったが、姉たちの励ましの言葉が、私にとっての緩和ケアとなったことは間違いない。

配信イベント「あってよかった緩和ケア」

令和3年度厚生労働省委託事業 緩和ケア普及啓発活動では、一般社団法人 全国がん患者団体連合会のご協力のもと一般の皆様を対象に緩和ケアの普及啓発を目的とした配信イベントを開催しました。本イベントでは、緩和ケアの体験談募集にお寄せいただいた体験談についてやパネリストによる緩和ケアについてのトークセッション等を行いました。アーカイブ動画を公開していますので、ぜひご視聴ください。
あってよかった緩和ケア

マンガ動画「家族ががんになったら知っておきたい緩和ケア」

令和3年度厚生労働省委託事業 緩和ケア普及啓発活動では、
マンガ動画「家族ががんになったら知っておきたい緩和ケア」を作成しました。
患者さん、ご家族の具体的な困りごとに焦点をあて、マンガでわかりやすく解説した全10話のシリーズです。

第1話

第2話

第3話

第4話

第5話

第6話

第7話

第8話

第9話

第10話

◎厚生労働省委託事業における緩和ケア普及啓発活動の目的について

平成19年4月に施行された「がん対策基本法」では、がん患者の療養生活の維持向上のために、「緩和ケアの推進」を含めた必要な施策を講ずるものとされています。これを受け、厚生労働省は国民に対して、「緩和ケアは死を待つだけのあきらめの医療」といった誤解を解き、緩和ケアの正しい知識を広めることを目的とした緩和ケアに関する 普及啓発活動の実施計画を立案しました。特定非営利活動法人 日本緩和医療学会は、厚生労働省から委託を受けその一環として、平成19年より委託事業委員会に緩和ケア普及啓発WPG(設立当時は緩和ケア研修等事業推進委員会内の緩和ケア普及啓発作業部会)を設立し、普及啓発を目的とした活動を実施しています。 令和3年度の委託事業「がん等における新たな緩和ケア研修等事業」では「あってよかった緩和ケア」をテーマとして緩和ケア普及啓発活動を実施して、市民の皆様ならびに医療従事者に対し「緩和ケアに対する正しい知識」についての普及啓発を実施しています。あなた自身や大切な人のため、緩和ケアについて知ってください。